礼儀・礼節・所作(れいぎ・れいせつ・しょさ)
礼法を學ぶ心
自然の動作の中に、男子は威厳厳正(立ち振る舞いが厳格で正しいこと)であって、従容(気持ちを和らげ、ゆったりと落ち着くこと)閑雅(態度が淑やかで雅やかな事)であることが望ましい、剛健であっても粗暴であるならば品位、風格とも減じてしまう。容姿腕娩(おとなしく素直な事)の中にも凛然(りりしく心引き締まるさま)として侵すことの出来ない品位が必要。人間の動作や行動に、同じ人間であるが故の共通な動きと言うものがあります。場に応じた溝や動きといった多くの人の経験を通じて取り出されたものが武道の「型」になりました。武道の型は祖先が命を懸けて練りに練った技が伝承されたものです。この技の「型」も、心が伴わなければ「虚体」となってしまいます。「型」は鋳型ですが、これに心を注入して「形」として生かしていくことが望ましいのです。
居合の修練には 三段階あります。
居合で學ぶ 第一段階は 刀の抜き方と納め方、そして振り方です。
抜刀、納刀という通常簡単に考えるところを徹底してやる。
徹底して學び研鑽することで、巻藁(まきわら)等は抜き打ちで簡単に
斬れるようになります。
第二段階は 組太刀(剣術形)です。
相手が向かって来ない第一段階とは異なり、
今度は相手が向かってきます。
刀が鞘の内(うち)にある時から、相手との間合(まあ)いの測り合い
呼吸の合わせ方、身体の捌きや足運びと相当な駆け引きがあることを
知ることです。相手の事を考えずに勝手に動いたり、無駄な動きをしたら
間違いなく斬られる、あるいは突かれるということが解ります。
こういう試斬稽古や組太刀稽古の後に、ようやく第三段階があるのです。
第三段階は「自分一人で行う居合形稽古」です。
自分の一人で行う居合形の稽古は何も考えなければ簡単で、深く知れば
知るほど難しく厳しい。その違いは形をなぞるだけなのか、第一段階、
第二段階の修練を積んで本来の居合の入り口に立ったかの差であろうと
思います。現代の凡人である私たちは、せめて試斬や組太刀といった術の
稽古を通じ最終的に形稽古の先にある道を見出し、現代の武道家を目指す
「道は術の中にあり」です。
無外流居合兵道 明思派宗家 新名 玉宗
「とにかく本を勤めよ 末々はついに治るものと知るべし」
無外流 流祖 辻 月旦 の言葉
自然の動作の中に、男子は威厳厳正(立ち振る舞いが厳格で正しいこと)であって、従容(気持ちを和らげ、ゆったりと落ち着くこと)閑雅(態度が淑やかで雅やかな事)であることが望ましい、剛健であっても粗暴であるならば品位、風格とも減じてしまう。容姿腕娩(おとなしく素直な事)の中にも凛然(りりしく心引き締まるさま)として侵すことの出来ない品位が必要。人間の動作や行動に、同じ人間であるが故の共通な動きと言うものがあります。場に応じた溝や動きといった多くの人の経験を通じて取り出されたものが武道の「型」になりました。武道の型は祖先が命を懸けて練りに練った技が伝承されたものです。この技の「型」も、心が伴わなければ「虚体」となってしまいます。「型」は鋳型ですが、これに心を注入して「形」として生かしていくことが望ましいのです。
居合の修練には 三段階あります。
居合で學ぶ 第一段階は 刀の抜き方と納め方、そして振り方です。
抜刀、納刀という通常簡単に考えるところを徹底してやる。
徹底して學び研鑽することで、巻藁(まきわら)等は抜き打ちで簡単に
斬れるようになります。
第二段階は 組太刀(剣術形)です。
相手が向かって来ない第一段階とは異なり、
今度は相手が向かってきます。
刀が鞘の内(うち)にある時から、相手との間合(まあ)いの測り合い
呼吸の合わせ方、身体の捌きや足運びと相当な駆け引きがあることを
知ることです。相手の事を考えずに勝手に動いたり、無駄な動きをしたら
間違いなく斬られる、あるいは突かれるということが解ります。
こういう試斬稽古や組太刀稽古の後に、ようやく第三段階があるのです。
第三段階は「自分一人で行う居合形稽古」です。
自分の一人で行う居合形の稽古は何も考えなければ簡単で、深く知れば
知るほど難しく厳しい。その違いは形をなぞるだけなのか、第一段階、
第二段階の修練を積んで本来の居合の入り口に立ったかの差であろうと
思います。現代の凡人である私たちは、せめて試斬や組太刀といった術の
稽古を通じ最終的に形稽古の先にある道を見出し、現代の武道家を目指す
「道は術の中にあり」です。
無外流居合兵道 明思派宗家 新名 玉宗
「とにかく本を勤めよ 末々はついに治るものと知るべし」
無外流 流祖 辻 月旦 の言葉